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会津と薬草の歴史

会津藩と御薬園(薬草園)

御薬園

 会津藩保科松平家二代藩主正経(まさつね)公は、初代藩主正之(まさゆき)公から家督継承した翌年1670年(寛文10年)貧しい農民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、薬草園をつくって各種の薬草栽培を始めました。

 1684~1687年(貞享年間)三代藩主正容(まさかた)公の時からは、次第にいろいろな薬草が整備拡充され、特に滋養強壮に薬効がある朝鮮人参(オタネニンジン)の試植に成功し、この栽培を広く藩民に奨励したことから御薬園と呼ばれるようになりました。

 1803年(享和3年)五代藩主頌(かたのぶ)公時代には、家老田中玄宰が出雲の国(島根県)から大量の人参種を買い入れ、会津一円に広く作付けを奨励し、やがて藩が直接指導することによって御薬園の役割はいっそう充実していきました。

 その主な内容は、朝鮮人参を中心にして会津に自生する薬草・薬木を積極的に栽培して各種の薬効の研究にあたったこと、いろいろな薬草の鑑定を行ったこと、毒草の見分け方の研究を進めたこと、いろいろな薬効をもつ植物の研究にとりくんだことなど、藩にとって極めて重要な役割をはたしていました。

 天明の飢饉(1782~1783年)では、会津藩内領地の農業も大きな打撃を受けました。会津藩では、疲れきった農村の農民振興に乗りだし、農民に力をつけなければならないことを悟り、朝鮮人参・養蚕・漆・ろう・紅花などの価値の高い作物の栽培を奨励して、生産販売することに力を入れ、それで藩の財政の立て直しも図ろうとしました。

 特に朝鮮人参は、高価な作物であることから、会津藩直営の事業とするために人参奉行所をもうけ、人参の生産販売を専売制にしました。そして藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は、1830年に天保幕府の御墨付きのもとに、日本で初めての輸出人参として、清国(中華人民共和国)に向けて長崎の港を出港しました。

 会津藩の人参奉行所による運営管理の要点は次の3点にありました。

  1. 村名主によって身元が確認された農民一人について1畝(1アール)あたり600粒の種子を貸し付ける。但し、一人3畝を限度とする。
  2. 買い上げ代金の前貸しをし、集荷・精製を一貫して引き受ける。
  3. 販売経路を確立して良品は海外へも輸出する。

 また、人参栽培農民は、人参奉行所により価格も安定し、来年の種子の貸し付けの保証もあり、海外市場も開かれていることで大いに生産に励みました。

 戊辰戦争、白虎隊で知られる九代目藩主松平容保(かたもり)公(1835年/天保6年)~1893年/明治26年)は、1946年(弘化3年)美濃国高須藩(岐阜県海津市)から11歳で養子となり、1852年(嘉永5年)家督継承により藩主となりました。その後1862年(文久2年)京都守護職を拝命し、新選組を組織して公武合体に尽くしますが、孝明天皇の崩御後の1867年(慶応3年)辞職、翌年の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の中心となって戦うも敗れ、領地を収公されて鳥取藩お預かりの身となりました

 その後会津藩士4,700名余りは、1869年(明治2年)出生まもない嫡男容大(かたはる)に家名相続が許され、新たに陸奥領内で斗南藩して3万石が与えられました。

 ※「斗南」とは、漢詩「北斗以南皆帝州」から名づけられました。